昭和57年3月13日 十三日会
                    末永静行  №57-033

(途中から)

もう許したいと思う、で、これこれのおかげを頂いたらこれだけはお供えしようと思いよると言ったような思いではなくてね、教会共に育つ、そんなら教会の事が思い思われる、心の底から、ね、御造営、御造営、ね、という思いを重ねていくならば、そこから不思議な働きが起こって来る、ね。そういう私はおかげを頂いて行くお互いの信心の過程の中に、ね。
二、三日前、私はお夢を頂いた、ちょうど私共がまだ椛目におるような感じである、丁度、椛目のこの通りをたくさんな人がたくさん通っておる、それが、見た事のある人達もその中に、私の知っておる俳優もおる、それの団長さんが井上正雄という、昔審判になんかおりましたね、その人が団長さんである。それがちょうど私が通って家におるその真正面の所で一人の人が、急に苦しみだして、その井上正雄も一つひっくり返ってどうあるかと、こう、いうただけで、まあ、皆が急ぐもんだからそれにかもうておれんで、皆がそれを放任して、皆が、まあ、旅を続けるというのか、目的地に向かっていったわけです。
それを私が家の中で見ておったからすぐ飛び出していって家の中に連れてきました。そして、御神米を頂かせたり、こう、さすってあげたりしておるうちにおかげを頂いて、もう涙ながらに喜んで有り難かった。丁度側に幹三郎がおりましたから、一行から遅れておるから、ね、自動車で送ってやれと、追いつく所まで、というようなお夢であった。
例えば人の親切を受けるとか特別なおかげを頂いたという時には、それこそ、涙がでるほどに有り難い、ね、知らん所で倒れた、そこに親切な人がおってその人が解放してくれたり助けてくれた、本当に死んでもご恩は忘れませんというごと有り難い、ね。お道の信心でいう真に有り難いというのはどう言う事だと思うんですか、そういう時に真に有り難い、本当に心から有り難いというんですから、やっぱ真に有り難いとのごたるばってん、これじゃないです、ね、難儀な時に助けてもろうたらやっぱ有り難いです、けれども、真に有り難いというのは、ね、それを解放してあげたい、御神米を上げたり、ね、そして、最後にはその人を連れから外れておるからそこまで送ってやれというようなその心が頂けれる事が有り難いと思う心が真に有り難いと言う事です。
親切を受けておるのが有り難いのじゃない、親切が施せれる事が有り難いんだという、それが真に有り難いんだというふうに、まあ、その時に頂いたんですけど、ね、自分の事、自分の事というのではなくて、いわゆる、神様を中心にするから神様もまた氏こ中心になって下さる、神様本位だから、神様、いうならば、氏子が神様任せなら神様も氏子任せになると仰せられますからと三代金光様は教えておられます。
だから、私共の信心が、いうなら、教会と共に育つと言う事はね、本当に自分のことから一歩も出なかったり、自分の祈りの内容が教会の事が開けてもくれても思い続けられる、御造営、御造営、御造営と思い続けられる、どうにかしてと、いうならば、心に工夫をさせてもらう、ね、そういう、いうならば、おかげの頂けれる事が有り難いと言うのが生まれてくるのが真に有り難い、その真に有り難いというその心がね、ね、おかげの始めと言う事、本当のおかげの始めと言う事になるのです。
これはもう合楽ではあんまり流行ませんから、皆さんにはお話をせんでもいいと思うけれども、だたい、いうなら金光教でもそういう傾向があるというのは、それこそ、長谷川真(はせがわしん)かけ売りしたような筋書きを良しとするような傾向があるのです。ね、なるほど、文芸的であるとか、芸術的であるとかという評価からいうたらそうかもしれません、合楽の場合はどうでもハッピーエンドに終わらなければならないとこういうのであるから、ちょっと考えると低級なごとあるけれども、そういうおかげの頂けれる、その内容そのものが、ね、育って行くと言うことである、内容そのものが有り難いのである、内容そのものが勿体無いのである、今まで気がつかなかった、本当にやけじんぐようなかると思われるような体内にあっても、おかげで助かったと言う事が有り難いのでは、有り難いのだけれども、ではなくて、そういういつも合楽ご縁を頂いておるとそういう祈りの中にいつもあるんだと気付かせてもらう、分からせてもらう、そこに、いよいよ、有り難いという日にちが、いわゆる、神恩報謝の心が、ね、信心も出来ませんのに勿体無いという心が育ってくる、そういう心が、ね、いわゆる、神恩報謝である、いわゆる、神恩報謝の心を、なら形に現したらどう言う事になるかというと、自分本位ではなくて、神様本位、合楽、お教会本位というような思い方が育ってくると言う事、そうなれじゃなくて、そう育って行くことである。
今日、ある方がお参りをして見えて、まあ、大きな会社のいくつもの、まあ、支配をなさっておられる方なんです、もう最近はそれこそ、皆立派な方ばっかりなんだけれども、いよいよのところになると、もうそれこそ、もうそれこそ、我情我欲だと申しましょうか、もうそれこそ、ドロドロとしたようなみんなの心が出会うと、その中にこっちまでがまいってしまいそうになる、こういう時にこう言う中にあって、合楽理念を以ってという風に思わせて頂いて、ね、そう言う人間の我情我欲の渦巻くような中にあって、おかげを頂きたい、ね。
昨日、中村先生がいろいろとお知らせを頂いておる最後のところに、中村あつ子先生が、「清水堅守」(しみずけんしゅ)と言う事を頂いた。ね、その事を皆さんと一緒に共励をした事でしたけれども、清水と言うのは限りなく下から湧いてくるものである、水はお恵みと仰るからおかげである、しかも、限りなく湧いてくるおかげ、合楽建設と言う事はそういう、だから合楽建設というのはもう限りなく続けられるものである、合楽教会がある限り、合楽建設というのは続けて行かなければならない、いわば、限りない、いうならば、おかげを頂いて、ね、打ち立てられて、合楽理念がなら打ち立てられていく、合楽建設が進んでいくと、ね、それには限りないもの、清水のようなおかげを頂くために、ね、自分の心から湧いて出てくるもの、ね。
今日もここに、あの、らんのお供えがあっておりましたが、私の部屋にもこの前から頂いておる、もう同じやっぱ洋らんですけれども、その花が大きくてもうふくっらとしとる、なんとかちいいよったね、あっ、マルリンモンロウちいうげな、その花の名前が、私はそれを聞いてから、ほんなこてマルリンモンロウちやこんなふうに、もうなんちいうかね、まあ、性的魅力まんてんいうじゃ許さんでしょう、もうこう、それこそ、またえて、まあ、女優さんの事でしょうが、本当にそのようにふっくらとしてね、本当こげな洋らんは初めてです、これがもう今の洋らんの界で、もう最高だと、ね、それが作ろうとして作るのではなくて、そういう新種が生まれてくるわけです、ね、信心のいうなら有り難いとか勿体無いとかというものが段々心の中に育って本当なものになって行くうちにです、もう思わぬかけない芽が出て来る訳ですね、その芽が、それこそ、マルリンモンロウのごたるとが出るわけです、ね、それが、もう大変な、まあ、評価を及ぶと言う事にもなってくるのです。
合楽で言われる合楽理念はみんな私の、いうなら、新種、今までかつて、これは金光教だけではない、ね、宗教界においてでもです、それこそ釈迦でもキリストでも説き得なかったであろうと、と思われるような、ね、御理解がここで頂けておると言う事は、ね、いうならば、私の有り難き勿体無きから生まれた新種です、ね、だからそれを体得する、それを覚えていく、  (途中切れ) おかげを受けられると言う事であります。